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●徳川慶喜(15代目)
1)征夷大将軍としての在任期間
1年 (慶応2(1866)12.5 ー 慶応3(1867)12.9)
2)没年
大正2 11.22 (76歳)
3)父:徳川斉昭、母:有栖川宮織仁親王娘吉子
将軍職としての執務を江戸城で行わなかった唯一の将軍である。
将軍後見職として後見を務めていた十四代将軍家茂の薨去後、江戸幕府最後の将軍に就任。大政奉還により明治天皇に政権を返上、将軍の位からも退任する。その後公武合体を目指すが、王政復古の大号令後の鳥羽・伏見の戦いでは、旧幕府軍を残したまま大坂から江戸城へと逃げ帰り、朝廷からの追討令を受け謹慎し、江戸無血開城を迎えた。明治に入り謹慎を解かれると趣味に生き、公爵として大正時代まで天寿を全うした。
若い頃から英邁さで知られ、実父徳川斉昭の腹心である安島帯刀は、慶喜を「徳川の流れを清ましめん御仁」と評し、幕威回復の期待を一身に背負い鳴物入りで将軍位に就くと、「権現様の再来」とまでその英明を称えられた。慶喜の英明は倒幕派にも知れ渡っており、特に長州藩の桂小五郎は「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」と警戒していた。
大政奉還後の鳥羽伏見で倒幕軍と戦い敗れると、味方を置き去りにして大坂から江戸へ逃げ帰った行動は、まだ十分に兵力が温存されており、家康以来の金扇の馬印は置き忘れたが、お気に入りの愛妾は忘れずに同伴していた事から、敵味方から敵前逃亡と大きく非難された。しかしこの時、江戸や武蔵での武装一揆に抗する必要があったことや、徳川家が朝敵になり、諸大名の離反が相次ぎ、たとえ大坂城を守れても長期戦は必至で諸外国の介入を防ぎたかったために仕方がなかったという意見もある。その一方で、赦免後の慶喜が自分のために命を捧げた旧幕臣に思いを寄せる事も無く悠々自適の生活を送っていることについて、後に当時の老中だった板倉勝静は慶喜と行動をともにした事を後悔していると述べて非難している。
その後、江戸無血開城など結果的に大きな被害を生じず政権移譲が達成できたことから近代日本の独立性が守られ、維新の功績は大きいと評価されて1869年に復権が認められ、1902年には公爵の位が授けられた。さらにそれと同じ頃には明治天皇への謁見と陪食も許されている。
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