|
●徳川家定(13代目)
1)征夷大将軍としての在任期間
5年 (嘉永6(1853)10.23 ー 安政5(1858)7.4)
2)没年
安政5.7.4 (34歳)
3)父:徳川家慶、母:本寿院
文政7年(1824年)4月8日、第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。家慶の子の多くは早世し、生き残っていたのはこの家定だけであった。しかし、幼少時から病弱で、人前に出ることを極端に嫌う性格だったと言われている。その為、乳母である歌橋にしか心を開かなかったらしい。一説には、脳性麻痺であったとされる。
天保12年(1841年)に祖父で第11代将軍、大御所であった徳川家斉が薨去したため、第12代将軍・家慶の世子となる。しかし父の家慶は、家定の器量を心配して、一時は徳川慶喜を後継者にしようと考えたほどである。だが、老中の阿部正弘らが反対したため、結局は家定を世子とした。
嘉永6年(1853年)、父・家慶がアメリカのペリー提督来航の最中に病死したため、後を継いで第13代将軍となった。
嘉永6年(1853年)に来航したペリーが、安政元年(1854年)に約束通り7隻の艦隊を率いて再来日すると、幕府は日米和親条約に調印した。安政4年(1857年)には、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスを江戸城で引見している。
しかし家定は病弱だったうえ、将軍就任以後にはただでさえ悪かった体調がさらに悪化して、ほとんど廃人同様になったとまで言われている。このため、幕政は老中・阿部正弘によって主導され、安政4年(1857年)に正弘が死去すると、その後は老中・堀田正睦によって主導されることとなった。
家定の後継者候補として、井伊直弼らが推薦する紀伊和歌山藩主の徳川慶福(徳川家茂)を将軍後継に推す南紀派と、島津斉彬、徳川斉昭が推す一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派が上がり、この両派が互いに第14代将軍の座をめぐって争う。
家定はこの将軍継嗣問題でも、表舞台に出ることはほとんど無かったが、安政5年(1858年)6月25日、大老・老中を招集して家茂を後継者にするという意向を伝え、7月5日に一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の行動を見せた。なお、家定が将軍らしい行動を見せたのは、これが最初で最後である。
幕末の難局にもかかわらず家定は就任直後から後継問題が浮上するほど体が弱く、一説には脳性麻痺だったとも言われているが、将軍として指導権を示すことが出来なかった。
|