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●徳川家慶(12代目)

1)征夷大将軍としての在任期間
 16年 (天保8(1837)9.2 ー 嘉永6(1853)6.22)

2)没年
 嘉永6.6.22 (60歳)

3)父:徳川家斉、母:香琳院

寛政5年(1793年)、江戸城に生まれる。天保8年(1837年)、46歳で父徳川家斉から将軍職を譲られたが、家斉が大御所として強大な発言権を保持していた。天保12年(1841年)、 父・家斉の死後、老中首座の水野忠邦を重用し、天保の改革を行わせた。

忠邦は幕府財政再建に乗り出し諸改革を打ち出したが、徹底的な奢侈の取締りと緊縮財政政策を採用したため世間に支持されなかった。また言論統制も行い高野長英や渡辺崋山などの開明的な学者を弾圧した(蛮社の獄)。

天保14年(1843年)、幕府が江戸・大坂周辺の大名・旗本領の幕府直轄(ちょっかつ)領編入を目的とした上知令を発令すると猛烈な反発を受けて、幕府は翌年その撤回を余儀なくされ忠邦は失脚して天保の改革は挫折する。

その後家慶は土井利位、阿部正弘、筒井政憲らに政治を委ね、水戸徳川家の徳川斉昭の子である一橋慶喜(徳川慶喜)を一橋家の養子とし、将軍後継候補とする。しかし、阿部らの働きかけにより、家慶は四男の家定を後継ぎに決定した。

嘉永6年(1853年)、アメリカのペリー提督が4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ、阿部正弘ら幕閣がその対策に追われる中、病のため薨去、享年61。墓所:東京都港区の三縁山広度院増上寺。法名:慎徳院殿天蓮社順譽道仁大居士。

家慶は趣味に生きた将軍で、政治を省みなかった。その為、諸大名の間では評判が悪く、暗愚とみられていた。


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