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●徳川家治(10代目)
1)征夷大将軍としての在任期間
26年 (宝麿10(1760)9.2 ー 天明6(1786)9.8)
2)没年
天明6.9.8 (49歳)
3)父:徳川家重、母:至心院
江戸城に生まれる。幼少時よりその聡明さから、八代将軍であった祖父の吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育った。家治は学芸の才能に恵まれ書画を得意とし、宝暦10年(1760年)に将軍職を継承し、父の家重の遺言に従い田沼意次を側用人に重用し、老中の松平武元らと共に政治に励んでいたが、意次が老中になると、政治を意次にまかせ好きな将棋などの趣味に没頭することが多く、結局祖父の期待には報えなかった。
ただし、その田沼意次を重用した事それ自体が英断であるとして、高く評価する意見もある。田沼意次が大胆な重商主義政策を推進し得たのも家治の後援あっての事であり、後述する通り家治の死によって田沼意次は失脚する。
意次は印旛沼・手賀沼干拓を実施し、蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画するなどを実施する。安永8年(1779年)、家治の世子家基が18歳で急死したため、天明元年(1781年)に一橋家当主徳川治済の長男豊千代(後の第11代将軍家斉)を自らの養子とした。
天明6年(1786年)のその死は反田沼派によって直ちには公表されず、田沼が失脚した後の9月8日(新暦9月29日)になって発葬された。また家治は、意次の差し出した薬を飲んだ直後に危篤に陥り死去した。無論、家治を暗殺しても意次に益するところは何一つ無いはずなのだが、それでも意次が毒を盛ったのではないかという噂が流れ、反田沼派の策謀により田沼意次は失脚した。
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