|
●徳川吉宗(8代目)
1)征夷大将軍としての在任期間
29年 (享保1(1716)8.13 ー
延享2(1745)9.25)
2)没年
宝暦1.6.20 (67歳)
3)父:徳川光貞、母:浄円院
徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の4男として生まれる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・家継の死により徳川将軍家の血筋が途絶えると、先々代の6代将軍家宣の正室である天英院に指名され、宗家以外からはじめて江戸幕府8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の確立に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、目安箱の設置などの享保の改革を行った。
破綻しかけていた幕府財政を再建したことから江戸幕府中興の祖と呼ばれる。また米相場の安定に苦心したことから米将軍(八木将軍とも呼ばれる)ともいわれる。
延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・家重に譲るが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態では無かったため、死去するまでの6年間は大御所として実権を握り続けた。なおこのとき、暗愚な家重より聡明な庶子宗武や宗尹を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われている。
身長が六尺(約180cm)を超える長身であったとされる(天英院の父・近衛基熙の記録より)。色が黒く、体力もあり父の光貞に命じられ関取と相撲の取り組みをした話も伝えられる。だが、大樹寺に収められている位牌の高さは155・5センチであるため、六尺の長身であったとは考えにくい。また、鷹狩などの武芸を率先して好み、武芸奨励を推し進めた。
自ら質素倹約に努め、着物は木綿、食事は朝夕の二回とし、献立も「一汁三菜」とした。この質素倹約と武芸の奨励によって、武士たちの精神を引き締めた。
|