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●徳川家継(7代目)
1)征夷大将軍としての在任期間
3年 (正徳3(1713)4.2 ー 享保(1718)4.30)
2)没年
享保1.4.30 (7歳)
3)父:徳川家宣、母:月光院
家継は家宣の死後、1713年、わずか5歳で将軍宣下をうけた。家継は間部詮房や白石とともに、家宣の遺志を継ぎ、正徳の治を続行したが、1716年4月、風邪が悪化してわずか8歳で死亡した。この間幕政は家継の母月光院お気に入りの側用人間部詮房と顧問格であった新井白石がリードした。家継は、学問に励み、間部詮房に、厳しい教育を受けていたといわれる。家継がわがままを言ったりぐずったりした際に、近くの者が「越前殿(詮房)が参られます」と言うと、すぐおとなしくなったと言う。
家継は、側用人の詮房から「上様、何事もこの詮房にお任せ下さい」という言葉を受け、詮房や白石の路線をそのままに政治を行った。
真偽はともかくとして、若く美しい未亡人であった月光院と独身の詮房の間にはスキャンダルが絶えず、大奥を舞台とした江島生島事件が起こるなどした。
1716(正徳6)年、家継が死ぬと、秀忠・家光の血筋が途絶え、紀州藩主、徳川吉宗が第8代将軍に就任する(以後は彼でもあり、紀州徳川家の直系が14代まで将軍を継承)と、詮房・白石は免職され、享保の改革が始まり、第4代将軍徳川家綱の時代に始まった文治政治は終わりを告げる。
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