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●徳川綱吉(5代目)

1)征夷大将軍としての在任期間
 29年 (延宝8(1680)8.23 ー 宝永6(1709)1.10)

2)没年
 宝永6.1.10 (63歳)

3)父:徳川家光、母:桂昌院

延宝8年(1680年)5月、将軍家綱に世嗣がなかったことから、その養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、5月、家綱が40歳で死去すると、将軍宣下を受け、内大臣となる。

のちに赤穂藩主浅野内匠頭が大名としては異例の即日切腹にされたのも朝廷との儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな原因であったようだ。綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳州・山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなり、この時代、儒学が隆盛を極めた。

綱吉の治世の前半は基本的には善政として天和の治と称えられている。

しかしながら、貞享元年(1684年)堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず、側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになった。

この頃から後世に“悪政”といわれる政治を次々とおこなうようになった。有名な生類憐みの令も、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して発布したものであるとする説がある(隆光と生類憐みの令の関係を否定する説もある。なお、一般的に信じられている「過酷な悪法」とする説は、江戸時代史見直しの中で、再考がされつつある。詳しくは同項目を参照のこと)。また大奥の奢侈を許して幕府の財政を悪化させ、勘定奉行荻原重秀の献策による貨幣の改鋳を実行したが、本来改鋳すべき時期をやや逸していたこともありかえって経済を混乱させている。そもそも後期の綱吉に前期のような政治への積極性はほとんど見られなくなった。

綱吉の治世下は、近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉といった文化人を生んだ元禄期であり、好景気の時代だったことから優れた経済政策を執っていたという評価もある。また、治世の前期と後期の評価を分けて考えるべきだと言う説もある。前期における幕政刷新の試みはある程度成功しており、享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗も綱吉の定めた天和令をそのまま「武家諸法度」として採用するなど、その施政には綱吉前期の治世を範とした政策が多いと指摘されている。


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