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●徳川秀忠(2代目 )

1)征夷大将軍としての在任期間
 18年 (慶長10(1605)4.16 ー 元和9(1623)7.27)

2)没年
 寛永9.1.24 (53歳)

3)父:徳川家康、母:西郷局(竜泉院)

徳川家康の三男として、遠江・浜松に生まれ、乳母・大姥局によって養育される。母は側室の西郷局、実家の西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には守護代をつとめたこともある三河の有力な国人であった。

近年の研究では、関が原に遅参したことで軍事面に於いてその無能振りを全国に示した秀忠及び自分の死後の徳川家の将来を悲観した家康が、もともとは秀吉の遺言に従い、徳川・豊臣両家共存の意向だったのを取り止めて、後顧の憂いを絶つべく豊臣家廃絶の道を選んだのではないかとする考えが示されている。

秀忠は戦国武将として無能、もしくは暗愚を示す逸話がある。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣出陣のときである。秀忠は10月23日に軍勢を率いて江戸城を出発した。関ヶ原で遅参した彼も同じ事を繰り返すような馬鹿ではなかった、むしろ大馬鹿者であった。24日に藤沢、26日に三島、27日に清水、28日に掛川、29日には吉田にまで到着するという強行軍を続けて秀忠が伏見城に到着したのは11月10日で、江戸から伏見まで17日間で到着するという強行軍を重ねた。このため、秀忠軍の将兵は疲労困憊し、とても戦えるような状況ではなかった。

一方で公家諸法度、武家諸法度などの法を整備し、徳川幕府の基礎を固めた為政者としての手腕を、高く評価する意見もある。秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、家光に将軍職を譲った後の秀忠も、大御所として全面的に政務を見ている。海音寺潮五郎は、「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。」と評している。


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